河原論説

TPP大筋合意と日米の対中戦略

河原 昌一郎

 2015年10月5日、日、米、加、豪等12カ国が参加するTPP(環太平洋経済連携協定)交渉は、2010年3月の交渉開始から5年半以上を経てようやく大筋合意に達した。日本が参加表明した2011年11月からは4年近くが経過している。この大筋合意によって、世界のGDPの約4割を占める世界最大の経済圏の誕生がほぼ確実となった。

 ところで、TPPは、国際法上は、WTO(世界貿易機関)協定の例外として認められているFTA(自由貿易協定)として位置付けられる。すなわち、WTO加盟国はWTO協定で定められた一律の条件で貿易を行わなければならないが、特定国間でWTO協定の条件を更に引き下げた特恵条件での貿易協定(FTA)を締結することが認められており、TPPもこの1つであって、このことは、たとえば日豪FTA、ASEAN・FTA等と変わるものではない。

 しかしながら、このTPPは、当初からその戦略性、政治性が指摘されるところであった。2011年11月のハワイでのAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の場で、当時国務長官であったクリントン氏は「TPPは単なる経済の枠組み協定ではなく、自由と民主の価値外交の手段だ」と表明し、TPPがアメリカの世界戦略の一環であるとの立場を明らかにしている。これに対して、中国は、TPPに対する公式の論評は行っていないものの、国内ではTPPは日米による中国包囲網形成の1つであるとのとらえ方がなされ、強い警戒心を持って見られている。日本国内で、TPP参加の是非をめぐる対立が深刻化したのは、こうしたTPPの戦略性、政治性が背景にあったためであり、必ずしも農業団体その他の利益団体が強く反対したためというだけのものではない。

 さて、それでは、このTPPの戦略性、政治性とはどのようなものなのだろうか、このことを考えるために、まず、本来の貿易交渉の場であるWTOの動向を見ておきたい。

 WTOの加盟国・地域は現在では161に及んでおり、世界の貿易ルールの交渉、形成は、従来、このWTOまたはその前身のGATTの場で行われてきた。GATT・WTOでの交渉は、1970年代までは関税引下げ、非関税障壁撤廃といった商品貿易に直接関係するものが中心であったが、1980年代に始まったウルグアイ・ラウンド(1994年妥結)ではこのほかに知的財産権、紛争解決といったものが交渉内容に含まれることとなった。国境を越えた企業投資や技術移転の増加といった経済情勢の変化に対応して、単に商品の交易条件だけでなく、商品の生産、流通についても取決めがなされ、より実質的に公正な競争の確保がめざされるようになったのである。

 中国がWTO加盟を果たしたのは2001年12月のことであるが、このときアメリカをはじめ各国は、中国がWTO協定を遵守し、自由貿易社会の健全な一員となることを期待したことは言うまでもないだろう。ところが、中国は、関税引下げ等の商品貿易の条件については原則として加盟条件の履行に応じたが、外国企業の活動に関する法令の透明性や知的財産権の保護といったことについては、実質的に全く無視したままであった。2001年からWTOでは、新たな生産・流通に関する取決めを行うため、貿易円滑化措置(税関業務の簡素化等)や企業生産における環境配慮等を盛り込んだ交渉(ドーハ・ラウンド)が開始されるが、この交渉は中国を含めた発展途上国の合意を得るに至らず、2008年には暗礁に乗り上げ、事実上挫折してしまう。交渉決裂の表向きの理由はともかく、このことは、中国が加盟国となっているWTO交渉の場では、各国の生産・流通を規制するような取決めをなすことは事実上不可能となっていることを示唆するものであった。

 この一方で中国は、WTO加盟後、資源獲得や地政学上の戦略的観点等から、各国との間でFTA交渉を積極的に推進し、特にアジアでは、ASEANを取り込んでアメリカを排除するという独自の経済圏確立の動きを示すようになった。

 TPPは、こうしたWTOの変質や、中国のアメリカ排除の動きに対抗したものである。このため、TPPでは、貿易または経済競争の公正性を確保するために、各国の生産・流通の規制にさらに踏み込み、事実上、中国を排除するものとなった。

 TPPの協定内容は各般に渡り、全部で30章にもなるが、その中で、現在の中国企業の生産実態から、中国では満たすことが難しいと考えられるものは「労働」と「環境」に関するルールである。

 「労働」では、労働者の結社の自由等を含めた労働基本権の保護や雇用差別の禁止等が法令によって保護され、維持されなければならないが、中国では実質的に結社の自由はなく、ストライキ権も認められていない。また、農民労働者と都市住民労働者との雇用上の格差は現在でも著しいものがある。一方、「環境」については、TPPでは環境保護に十分配慮した生産・流通体制を確保することが求められるが、中国では環境基準は実態として無視されたままである。

 こうしたルールは、主要先進国ではすでに守られているものであるが、中国でこの条件を満たそうとすれば一定の民主的改革に踏み込まざるを得ない。とりわけ、現在の中国で、労働者に結社の自由を許し、またストライキ権を認めることは、労働者の暴動を誘発して社会不安を招きかねず、中国がこうした選択を行う可能性はほとんどあり得ない。

 このほか、TPPの協定内容で中国が受け入れることが難しいと考えられているものは「投資」、「金融サービス」、「国有企業」、「知的財産」等がある。

 「投資」では、たとえば投資受入国が投資に関して不合理な規制を行ったような場合には、投資家は当該国を第三者機関である仲裁廷に訴えることができる規定が設けられたが、中国がこれを受け入れることは難しい。中国では、技術情報開示を投資条件とするようなことが頻繁に行われている。「金融サービス」については、中国はWTO加盟時に農業分野を犠牲にしても金融自由化は最小限に抑えたという経緯もあり、金融市場のこれ以上の開放は望まないところであろう。「国有企業」では、政府の国有企業に対する非商業的な援助(贈与、特別の優遇等)は禁止されるが、中国がこれを約束することは難しい。「知的財産」については、知的財産権の侵害またはその恐れのある不正商品の規制・罰則の強化等が規定されているが、WTO規定すら守れない中国が、これに合意することは難しいだろう。

 以上のとおり、TPPは、単に商品の交易条件の改善だけでなく、各国の生産・流通体制にまで深く踏み込んだルール作りを行おうとする意欲的なものである。このことは、一方で、WTO交渉では事実上不可能となったルール作りを、加盟国はまだ限定されているものの、TPPで実現させようとするアメリカの意図を反映したものでもあった。実際、労働条件が守られず低賃金で劣悪な環境下での労働によって、しかも環境基準を無視して生産されたような商品は、労働条件や環境基準を遵守した生産された商品と公正な競争を行っているとは認められないであろう。特別の優遇を受けた国有企業によって生産された商品や、知的財産を窃取して生産されたような商品も同様である。こうした意味で、TPPは、公正な競争を確保するための新しい経済ルールなのであり、それがまたアメリカの主張なのである。オバマ大統領は、TPP大筋合意直後、議会に対して、アメリカは決して中国のような国に世界貿易のルールを書かせることはできず、アメリカこそがこのルールを作るのだと述べているが、これはこうした自負を表現したものであろう。

 上述から明らかなとおり、中国がTPPに加盟して、低関税、貿易円滑化等に関する優遇措置を受けようとすれば、国内体制の一定の見直しまたは民主化措置は避けられない。もし、そうした措置を講じなければ、中国はTPPから排除されたままとなり、参加国の状況等によっては一種の中国封じ込め的な効果が生じることとなる。TPPには戦略性、政治性が認められ、また、NATOのアジア経済版とも称されるゆえんである。

 今後の日米の課題は、難航も予想されるがとにかくTPPを発効させ、中国には公正な競争のルールを守るよう毅然とした態度で促していくということとなろう。現在交渉中のTTIP(環大西洋貿易投資協定、欧州版TPP)の動向も見ていく必要がある。これに対して中国は他のFTA等を活用した対抗を考えているとの見方もあり、そうなれば新型の冷戦の萌しとなろう。いずれにしても、日米は、過剰に期待して失望するという中国のWTO加盟で犯した過誤を繰り返してはならないだろう。


発表時期:2015年11月
学会誌番号:34号

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