河原昌一郎
戦前に書かれた中国の社会、文化に関する日本人研究者による論考等を読んでいると、戦前の研究者は現在の日本人には失われてしまったものを持っていたのだと強く感じさせられることがよくある。現在の日本人が失ったもの、それは日本の社会、文化に対する深い理解、帰属意識と愛着である。戦前の研究者は日本の社会、文化を十分に知悉し、自らがその体現者であるという自覚があるがゆえに、中国大陸での現地調査等を通じて、日本の社会、文化とも比較しつつ、中国の社会、文化の本質を鋭くえぐり出し、その性格や特色を十分な確信を持って指摘することができたのである。現在の日本人には望むべくもないことであろう。
こうした戦前と戦後の相違は、言うまでもなく個人が育つ過程における教育、社会環境の相違から生じている。戦前においては、家庭にあってはそれぞれのイエでの躾けがなされ、集落では集落社会の一員としての役割が求められ、学校では国家への忠誠が教えられた。個人はまず組織、社会の一員であり、それにふさわしい行為をすることが必要であり、それができなければ一人前とは認められなかった。このため、自分に属する社会に関心を持たざるを得ず、強い社会意識が培われることとなったのである。
これに対して、戦後の教育は徹頭徹尾個人に着目したものとなった。多様な個人の能力の開発、発揮ということばかりが強調され、個人のほうも自分の能力がどのようなものかということにしか関心を示さなくなった。その結果、個人主義的で個人の権利のみを主張するが、その一方で社会意識に不足し、または社会には無関心だというような者が日本人の大勢を占めるようになっている。
個人の年齢は生まれてから現在までのものにすぎないが、社会は古くからの歴史を有している。社会を知るということは、すなわち、自分達の祖先の歴史を知るということでもある。社会意識の醸成は、自分達の立ち位置を空間軸だけでなく歴史軸で考えることにもつながる。ところが、個人主義的で社会に無関心な者は、自分の年齢だけのわずかな時間と空間軸以上に思考の範囲が広がることがない。往々にして社会が歴史性を有していることが見過ごされる。現在の多くの日本人に、歴史軸で物事を考えるという視点が欠けているように見受けられるのは、こうした適正な社会意識の欠如が一因となっているのではないかと考えるのである。
発表時期:2016年11月
学会誌番号:38号