河原論説

中国が唱え始めた「経済の新常態」の行方

河原昌一郎

 中国が最近になって内外で大々的に唱え始めた「経済の新常態」という概念は、2014年5月の習近平の河南省視察の際に初めて提起されたものであり、従来の高度経済成長路線から転換して中国政府が今後めざそうとする経済運営の基本的方針と枠組を示したものである。

 中国経済は、これまで行われてきた経済成長優先政策によって環境の悪化、賃金の上昇、過剰投資といった現象が進行し、2012年からは経済成長の減速傾向が明らかとなっていたが、2013年11月に開催された中共第18期第3回中央委員会全体会議(三中全会)においては、党内の利害調整等が十分に進まなかったためか中国経済の今後の方向についての考え方を明確に示すことができなかった。したがって、2014年になって打ち出された「経済の新常態」という概念は、ようやく党内で一定の意志統一が図られ、三中全会で先送りにされた課題についてその結論を示したものということができる。

 それでは「経済の新常態」とは具体的にどのような概念なのであろうか。これについては、8月6日から8日まで人民日報で「経済の新常態」に関する説明記事が連載されるとともに、11月9日のAPEC商工業者サミットにおける習近平の講演でも「経済の新常態」の意味するところについての詳細な説明が行われている。そこで、ここでは上記APEC商工業者サミットにおける習近平の講演内容にしたがって、「経済の新常態」の概要を説明しておくこととしたい。

 第一に、「経済の新常態」は、①高速成長から中高速成長への転換、②第三次産業の消費需要を主体とした経済構造への変化、③生産要素の投入増加または投資による成長から技術革新(イノベーション)による成長への転換、という過去30年にはない3つの特徴を有しているとする。すなわち、中国経済の成長率の一定程度の低下は正常なものとして容認するが、その一方で経済構造の高度化、合理化が進み、経済成長の原動力も従来の投資拡大から技術革新へと変化するというものである。中国経済は30年以上続いた高速成長の後、成長率が7パーセント以上8パーセント以下の「常態成長」の段階に入っており、今後は成長率がいくらか低下しても経済刺激策によって8パーセント以上の高速成長率に戻そうとするようなことはないとする。

 第二に、「経済の新常態」は、中国経済が新しい発展段階に入ったことを意味し、中国は新しいチャンスを迎えているとする。「経済の新常態」で成長の原動力が技術革新へと転換すれば、経済成長の質が高くなり、中国は高速成長期よりもさらに高い実質メリットを享受することができるという。

 第三に、中国経済が直面する新たな問題と矛盾を解決して「経済の新常態」を軌道に乗せるための鍵は改革の深化にあるとする。従来のように経済成長を景気刺激策に依存したり、改革をしないことによって民間企業家が投資に躊躇したりするようになれば、「経済の新常態」への十分な移行が妨げられる。技術革新を中国発展の新しい牽引力にするために改革は不可避であるとする。

 以上が「経済の新常態」の意味する基本的内容であるが、これらから明らかなとおり、「経済の新常態」には①中国経済の成長率の一定の低下は避けられない現実であるとしてこれを受け入れるという現実的側面と、②経済成長の原動力を従来の単純な拡大投資から今後は企業の技術革新へと転換させるという目標的側面の2つ内容が含まれている。

 このうち現実的側面については、経済成長の鈍化が過剰生産、競争力低下等に起因する構造的なものであることから、これを受け入れずにさらに景気刺激策等で成長率を高めようとすると早晩全くの経済破綻に陥ることは必至であり、成長率低下の受け入れはやむを得ないところであろう。また、現実はすでにそうした状態で進行しており、これについてはこれ以上の議論を要しないところである。

 問題は今後の経済成長の原動力を技術革新に転換させるという目標的側面である。中国は、これまで、先進的技術は外資による導入・移転に依存し、経済成長は基本的に技術革新を伴わない単純な投資拡大によって実現してきた。ところが、今後は、国内企業による自主的な技術革新投資を経済成長の原動力にするという。そして、このことが「経済の新常態」の最も重要な理念であり、また目標ともされているのである。ところが、中国における自主的な技術革新能力の不足は世界の知るところであり、これまで技術は外国のものを導入するか、または模倣して利用するほかなかった。この過程で各種の知的財産権の侵害事件が多発したことも周知の事実である。こうした中国において、技術革新のための投資を今後飛躍的に拡大させていくというようなことが果たして可能なのだろうか。

 このことを検討するため、中国の国内投資の資金源をまず見ておきたい。中国国内での投資資金の資金源による内訳(2013年)は、国家予算資金5パーセント、国内融資(金融機関からの融資)12パーセント、外資1パーセント、自己資金67パーセント、その他資金(投資信託会社等の非金融機関からの融資等)15パーセントとなっている。このうち、国家予算資金、国内融資、その他資金の多くは景気対策やその他の政策的要請に対応するための資金として用いられてきたものである。これらの資金については今後ともそうした性格に大きな変化はないだろう。また、外資は先進的技術、施設の導入に多く用いられるが、比率が1パーセントと小さく、最近では投資額も伸び悩んでいる。したがって、経済成長の原動力転換のための重要な鍵を握っているのは、投資資金の約3分の2を占める自己資金による投資の動向ということとなろう。すなわち、これまで自己資金投資では単純な拡大投資しか行われてこなかったが、今後は技術革新を伴う投資が行われるようになるのかどうかということである。

 ところで、言うまでもないことであるが、民間企業の自主的な技術革新のための投資が起こるには、投資に不必要な規制や行政的介入がなく、市場の透明性や安定性が確保されていなければならない。すなわち、市場での公正で自由な競争が確保されており、また将来とも確保されるという確証がなければ自主的な技術革新のための投資は起こらないということである。

 しかしながら、中国では地方政府等による投資に関する規制や企業活動への行政的介入が広く行われ、司法的解決を求めても司法は共産党政府の指導下にあって独立性がなく必ずしも公正な解決が期待されるわけではない。このため中国の経済市場は基本的に規制や介入による特別の利益を追求するもの(レントシーキング)となっているのであり、公正で自由な市場競争が確保されているとは言い難い。中国の経済市場の実態は、日本や欧米の経済市場とは根本的に異なっているのである。したがって、現在のような市場・経済体制が存続する限り、中国で技術革新による成長方式への転換が実現することは困難とするほかないであろう。

 そこで中国政府が打ち出したのが「改革の深化」であり、2014年10月の中共第18期第4回中央委員会全体会議(四中全会)で提起された「依法治国」(法による統治)である。

 「改革の深化」は、地方政府等による不必要な規制を撤廃させ、行政的介入を抑制するための改革等を徹底しようというものである。

 また、「依法治国」は、本来は中国が現在直面する社会の不安定化や党内抗争を念頭に置いたものであるが、経済面においても行政担当者による恣意的な介入を防止し、司法の信頼性を高めることは技術革新による成長方式への転換に資するものとなり得る。

 しかしながら、「改革の深化」にしても「依法治国」にしても、共産党が独占的権限を有し、自己の都合によって法律を変えることが可能であり、また裁判所も共産党の指導下にあって司法の独立性がないというような体制の中では、たとえいくらかの改善は見られるにしても、本質的なところが変わるわけではない。すなわち、実質的に、公正で自由な競争市場が中国で実現することは今後ともないのである。

 したがって、中国で現在の共産党独裁体制が維持されている限りにおいては、「経済の新常態」がめざす技術革新による成長方式への転換は十分には起こらないと見るほかない。結果として、中国経済は、経済成長が減速する一方で、技術革新も不十分なままとなり、今後ともレントシーキングの要素を色濃く残した非効率な経済が持続することとなろう。「経済の新常態」は結局のところ画餅に帰す可能性が強いのである。


発表時期:2014年11月
学会誌番号:31号

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