コラム

日本は戦時中、核実験に成功していた ―R・K・ウィルコックス『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』の検証―

日本は戦時中、核実験に成功していた
―R・K・ウィルコックス『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』の検証―

元陸将補 矢野義昭

1.日本の大戦中の核開発をめぐる従来の定説とウィルコックスの新説

日本は第二次大戦中に核開発に取り組んではいたが、理化学研究所の仁科芳雄博士を中心とする陸軍の「二」号計画がとん挫し、1945年5月で終結したとするのが、従来の定説である。
その背景には、当時の我が国の、技術的困難、原材料の不足、空襲による施設装備の被害、資金の不足などの諸事情があったとみられている。
しかし、本当にそうだったか疑問を呈する新説を裏付ける、米国の機密資料が近年、続々と公開されるようになっている。
新説をまとめた代表的な書物が、ロバートK・ウィルコックスによる『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』である。
本書執筆のきっかけとなったのは、ウィルコックスが、スネルという著名なジャーナリストが書き残した、「ワカバヤシ」と称する元海軍士官のインタビュー記事の内容であった。
スネルは、日本人士官から1946年夏以前に聞き取ったとする、以下の証言から「1945年8月12日に北朝鮮の興南で日本が核爆発実験に成功していた」と主張した。
その主張を、米公文書館などの秘密解除された文書や関係者へのインタビューなどの、自らの調査結果に基づき、裏付けたのがロバート・K・ウィルコックスであった。
調査結果をまとめて1978年に、R・K・ウィルコックスの『日本の秘密戦争』の初版が出版された。しかし、以下のスネルの記事と同様に長年、「作り話」とされ、米国でも日本でも本格的な追跡調査はされてこなかった。
しかし、今秋『日本の秘密戦争』の第3版が日米同時出版されることになった。第3版では、政府部内でチームを組んでウィルコックスの主張について調査していた、元CIA分析員のトニー・トルバや元米空軍の画像分析・核兵器の検知の専門官だったドワイト・R・ライダーと名乗る人物の証言が、新たに追加されている。
その内容は実に驚くべきものである。翻訳者である私自身、翻訳を始める前は半信半疑だった。しかしほぼ翻訳を終えた現在では、日本が大戦末期の1945年8月12日に核実験に成功していたことは、ほぼ間違いのない歴史的事実と言えるのではないかとの見方に立つに至った。

2.スネルが主張した、日本による1945年8月12日の核実験の成功を示す証言

以下は、ウィルコックスの著書初版本の「序章」に記述された、スネルの日本人士官「ワカバヤシ」からの聴き取り内容の抜粋である。

第二次世界大戦終了直後に、米国の太平洋担当情報機関に衝撃的な報告がもたらされた。日本人が、降伏する直前に、原子爆弾を開発し成功裏に爆破試験を行っていたというものであった。その計画は朝鮮半島の北部の興南(「コウナン」と朝鮮名「フンナム」の日本名で呼ばれた)か、その近くで進められていた。その兵器が使用されるかもしれなかった、それ前に戦争は終わったが、造られた工場設備はソ連の手に落ちた。
1946の夏までには報告が出された。第24犯罪者取調べ派遣隊係官(のちに『ライフ』誌の特派員)のディビッド・スネルは、離任後に『アトランティック・コンスティテューション』にそれについて書いている。彼は多くの情報提供者の一人にその話についてインタビューを行った。彼は、朝鮮から日本の故郷に帰る途中の士官で、その計画の秘密保持の責任者であったという人物であった。
スネルが記述している、士官の語った内容とは、以下のようなものであった。
「興南の山中の洞くつで人々は、時間と競争で、日本側が原爆につけた名前である「原子爆弾」の最終的な組み立て作業を行った。それは日本時間で1945年8月10日のことであり、広島で原爆の閃光が光ったわずか4日後、日本の降伏の5日前であった。
北方では、ロシア人の群れが満州になだれ込んでいた。その日の真夜中過ぎ、日本のトラックの車列が洞窟の入口の歩哨線を通過した。トラックは谷を越えて眠りについている村を過ぎていった。冷え込んだ夜明け前に、日本人の科学者と技術者たちは、興南の船に「原子爆弾」を搭載した。
沖合の、日本海の小島の近くで、さらに大急ぎで準備が進められた。その日は一日中古い船、ジャンク、漁船が投錨地に入っていった。
8月12日の明け方、ロボット式のボートがポンポンと音を立てて錨の周りの船の間を抜けて、小島に達着した。ボートに乗っていたのは「原子爆弾」だった。
観測者は20マイル離れたところにいた。これまで過酷な作業に取り組んできた男たちは、その完成が遅すぎたことを知っていたが、この待機は困難で奇妙なものであった。
日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。その瞬間、海の向こうに太陽は顔をのぞかせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用の眼鏡をかけていた観測者が盲目になった。火球の直径は1,000ヤードと見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲になった。
激しい水と水蒸気によりかき回され、爆発点の真下にあった船は見えなくなった。錨の周りの外周にいた船やジャンクは激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5~6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気付いた。
「原子爆弾」のその瞬間の輝きは、東に昇ってきた太陽と同じ程度だった。
日本は、広島や長崎も褪せるほどの大異変である、原爆の完璧かつ成功裏の実験を成し遂げていたのだ」。
爆弾は日本海軍によりカミカゼ機に使うために開発されたと、士官は通訳を通じて、スネルに語った。米軍が日本の海岸に上陸したら米軍に対して特攻機から投下する予定だった。
「しかし、時間切れになった」とスネルは報告し、以下のように付加している。「観測者たちは急いで水上から興南に戻った。ロシア陸軍の部隊は数時間の距離に迫り、『神々の黄昏』が最終的な意味合いで始まった。技術者と科学者たちは機械を壊し書類を燃やし、完成した「原子爆弾」を破壊した。ロシア軍の一隊が興南に来るのがあまりに速かったため、科学者たちは逃げのびることができなかった」。
科学者たちはロシアに連行され拷問にかけられたと、士官は語った。しかし彼らは語ろうとはしなかった。「我々の科学者たちは、ロシア人に秘密を白状する前に、殺されることはなかった」。彼はそれを知っていると言った。彼は、逃れた一人とソウルで話したが、彼自身と同様に、送還された。
米軍の将校たちは混乱した。彼らは、日本人が原子爆弾に取組んでいたのを知っていたが、彼らが理論以上に進んでいたとは信じていなかった。今や彼らには、それとは逆の数多くの資料が立ちはだかっていた。すべての報告書は本質的には同じことを語っていた。その一部にも真実はないと信じるのは、困難であった。「これらの報告書は、大いに信頼に値するべきものと感じられた」と、セシル・W・ニスト大佐は、1946年5月1-15日付の、ワシントンの最上層部のみの目に触れることを意図した、そのG-2情報報告書において、興南について、そう結論付けている。

3.ウィルコックスが調査し解明した情報の要点

川島虎次郎将軍によれば、東条英機首相は1943年頃、仁科の計画に対する全面的支援を表明している。日本の科学者たちが、軍や政府から支援を受けていなかったとする見方は誤っている。
1945年5月までに、理研(理化学研究所)の仁科芳雄を中心とする二号計画は中止された。しかし、日本海軍は、ミッドウェーの敗北以降、原爆開発を目指すF号計画を本格化させ、陸軍の二号計画中止後、その遺産を継承し密かに核開発を続けた。
特に戦艦大和級の戦闘艦艇2隻の建造を中止し、その鉄鋼や銅、予算をF号計画に投入したのではないかとみている。それでなければ、日本国内での鉄鋼、銅などの不足が説明できない。
日本の戦時中の統治地域、特に北朝鮮には豊富な電力とウラン鉱石があった。
北朝鮮の水力発電量は350万キロワット、マンハッタン計画の倍以上の発電力があり、その中心地の興南の日窒(日本窒素肥料株式会社)では、豊富な電力を使いジェット燃料を製造していた。
興南の工場内には、警備の厳重な施設が一角にあり、高電圧のアーク放電による重水の製造などが行われていた。
満州最大の海城のウラニウム鉱山は、1938年に南満州鉄道の地質学者により発見され、10マイル以上にわたる二つの鉱脈が走っていた。
1944年11月からウランの採掘が始まった。ウランの抽出量は年間5トンから20トン程度だった。
戦時中日本は、特に朝鮮北部と満州でのウラン鉱の探査を最新の方法を使い行っていた。野口遵が創設した日窒は北朝鮮からモナズ石574トンを採掘精製し理研へ送っていた。
理研のソウルの精製施設には、ウランを含むフェルグソン石3トンが1945年7月には備蓄されていた。
日本の科学者、技術者の水準も高く、かなりの技術水準に達していた。一部では米国以上の水準に達していた。
荒勝は湯川秀樹を高く評価しており、湯川は臨界量決定の決め手となる、1個の中性子が核分裂した際の中性子の発生数を研究していた。湯川の功績が後のノーベル賞受賞につながった。
仁科は臨界量について、当時としてはかなり高度の計算を行っている。その点はドイツよりも進んでいた。
戦争末期には京都帝大の荒勝文策は、海軍の資金提供を受け、遠心分離機の設計を完了していた。遠心分離機の面では米国よりも進んでいた。
終戦直後の占領軍の調査により、日本国内の研究機関や大学にサイクロトロン以外にも核開発に関連した多くの設備があり、ウラン鉱石なども備蓄されていたことが、確認された。それが、1945年11月のGHQによる突然の日本のサイクロトロン破壊の主な理由だったとみられる。
日本は本土決戦用として陸海軍がそれぞれ4千~5千機の特攻機を準備し、核爆弾の使用も計画していた。
しかし、日本の核計画はソ連、中国にその情報を知られていた。
スターリンは、ローゼンバーグ夫妻などを使いマンハッタン計画を諜報していたが、米国よりもソ連に近い、日本の核開発についても諜報活動を行っていた。日本の科学者の一部にはソ連に協力的な者もいた。
朝鮮戦争中に、米軍と中共軍が激戦を繰り広げた長津貯水湖から海岸の興南に至る間の山中のコト・リというところで、米軍と韓国軍により、巨大な洞窟内の地下武器工場が確認されている。そこには日本製の機械類が据えられていた。
興南の山中の巨大な工場施設は、オークリッジの放射性同位体の熱拡散分離工場と「極めてよく似た」形状や機能を備えていることが、航空写真の画像分析から判明した。
その施設には、熱拡散分離工場に特徴的な、形状や水利施設、高圧線による豊富な電力供給、鉄道の引き込み線、3重の警備用フェンスなどが確認された。
日本の核計画の遺産の奪取とその活用なしには、ソ連があれほど早く1949年に核実験に成功したとは考えられない。スターリンは原爆開発を指令し、日独の科学者を拿捕し、ソ連の原爆開発に従事させた。
1945年8月にソ連は興南の核施設を破壊前に急襲して核関連設備などを根こそぎ略奪してソ連に送り、科学者と技術者を拉致した。
ソ連軍は長崎への原爆投下直後に、対日侵略を開始したが、その最大の目標は、興南の日本の核施設の奪取だった可能性がある。
ソ連は日本人科学者の協力も得て、戦後も興南で核関連の作業を継続していた。1947年6月の米軍の秘密報告によれば、興南でソ連人と、日本のNZ計画という新兵器開発計画に関与していた田村という日本人科学者が、秘密施設で高電圧アークを使い活動していた。生産物は潜水艦でソ連に定期的に輸送されていた。
蒋介石は1946年秋までに、瀋陽に原子爆弾作業のために一群の日本人科学者を集めていた。
朝鮮戦争参戦時に中国軍は、興南と咸興を目標にしていた。それが、両市に電力を供給していた長津貯水湖で中共軍が奇襲攻撃した主な理由だった。
内戦後間もない中共が朝鮮戦争参戦を決意した大きな理由の一つとして、興南の日本の核施設の奪取があった。中共は当時すでに核開発を決心していた。
現在の北朝鮮の核開発のインフラは、日本の遺産であり、中心となった核物理学者も日本統治下で日本の帝大などで育成された。

まとめ

日本の戦前戦中の核開発努力と能力は再評価されるべきであろう。特に仁科、荒勝、彦坂などの核物理学者と野口遵など産業界は卓越した貢献をした。
日本の科学者、学会は、国内では戦時協力者として非難され、占領軍に戦犯として逮捕されることを恐れたとみられるが、核協力の過去を隠ぺいしようとした。
しかし科学技術者が戦時に協力するのは当然のことであり、むしろ他国では誇るべきこととされている(なお、ウィルコックスも同じ見解を示唆している)。
激しい空襲と物資の欠乏する中、これだけの研究開発努力を続け、実績を上げた日本の科学者、技術者、産業界は再評価されるべきである。特に、彦坂の黒鉛減速型原子炉が稼働していれば、短期間にPu-239を抽出可能し核爆弾の燃料にできたであろう。荒勝の遠心分離機の開発は米国に先行していた。
NPT(核兵器不拡散条約)によれば、核兵器の保持を許される「核兵器国」は「1967年1月1日の時点で既に核兵器を保有している国」と規定されている。1945年8月12日に核実験に成功していれば、日本は核兵器国としての資格を持つ。
ソ連も中国も戦時中から核開発を知り、早くからそれを欲していた。蒋介石も同様だった。
北朝鮮の潜在力も過小評価できない。経済封鎖の下でも核開発ができることを日本は実証した。
米国は核不拡散の立場からも日本の事例を研究すべきだと認識している。日本の潜在力を封印するのが、日本の核開発を秘密にしてきた理由の一つであろう。
いま米政府の秘密が解除されるのは、日本の核開発黙認のシグナルかもしれない。
1990年代以降の中朝の核戦力増強により、2006年頃には米国の核戦力バランスの圧倒的優位が失われたとの認識が表れている。
例えば2006年の全米科学者連盟と米国国家資源防衛会議による共同報告では、中国が対米先制核攻撃に成功すれば、米国の被害は4千万人に上り、それに対する米国の核報復による中国の被害は2,600万人にとどまるとの被害見積りが公表されている。
同年には北朝鮮による初の核実験が行われた。その頃から、元政府内部の機密文書分析担当官のトルバやライダーによる、米政府内部の日本の核開発に関する秘密文書の、ウィルコックスなど部外者への公開が始まっている。
対中朝核戦争で勝利できる見通しが薄れるにともない、核の傘の信頼性は低下した。日本に対し核の傘の提供を保証することは、米国の望まない対中朝核戦争に米国が巻き込まれるおそれを高めることになった。
そのリスクを回避するには、体制と価値観を共有する日本の核保有を黙認し、独自の核抑止力を持たせ中朝に対する対日侵攻への抑止力を強化するのが、米国の国益上有利と、米国指導層は2006年頃に判断したのではないかとみられる。
日本の第二次大戦中の核開発努力が再認識され、日本の潜在能力が正当に評価されるようになれば、今後、日本の自立的な核抑止力が強化され、日本の国力、特に威信、防衛力と外交交渉力が高まるだけではなく、東アジア全般の安定と平和にもつながるであろう。
併せて、台湾と韓国の潜在的な核開発・配備能力を容認し、実質的な日韓台の核抑止トライアングルを形成すれば、中国の西太平洋への侵出や台湾海峡危機、尖閣危機、南北朝鮮の軍事衝突を抑止でき、中朝ロによる核恫喝に屈するおそれも減り、外交的政治的にも危機時の死活的国益の擁護につながると思われる。
米国にとっても、日韓台に対し米国との信頼関係に基づき、独自の核抑止力、少なくとも即時に機能させうる潜在的核抑止能力を認めることは、米国の国益にとり不利なことではない。
そうすることにより、中朝ロに対する独自の核抑止力が高まり、日韓台がこれらの諸国による核恫喝に耐えることができるようになる。また、日韓台の核抑止力と米国の核抑止力のリンケージが確実に保証されることから、核の傘の信頼性も維持されるであろう。
東アジアにおける核抑止態勢は、従来の米国による単独抑止から、多国間抑止に移行するべき時に来ていると言えよう。
日本は、大戦末期から現在に至るまで高度の潜在的な核能力を持ち、かつ唯一の被爆国であり、域内で中国に対抗しうる大国として枢要な立場にある。日本は、東アジアの核抑止態勢の中心的担い手となり、域内のみならず世界全体の安定と平和に積極的役割を果たすことができる能力と責任を有している。


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発表時期:2017.06.07


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日本は戦時中、核実験に成功していた ―R・K・ウィルコックス『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』の検証―

日本は戦時中、核実験に成功していた
―R・K・ウィルコックス『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』の検証―


元陸将補 矢野義昭



1.日本の大戦中の核開発をめぐる従来の定説とウィルコックスの新説


日本は第二次大戦中に核開発に取り組んではいたが、理化学研究所の仁科芳雄博士を中心とする陸軍の「二」号計画がとん挫し、1945年5月で終結したとするのが、従来の定説である。
その背景には、当時の我が国の、技術的困難、原材料の不足、空襲による施設装備の被害、資金の不足などの諸事情があったとみられている。
しかし、本当にそうだったか疑問を呈する新説を裏付ける、米国の機密資料が近年、続々と公開されるようになっている。
新説をまとめた代表的な書物が、ロバートK・ウィルコックスによる『日本の秘密戦争(Japan’s Secret War)』である。
本書執筆のきっかけとなったのは、ウィルコックスが、スネルという著名なジャーナリストが書き残した、「ワカバヤシ」と称する元海軍士官のインタビュー記事の内容であった。
スネルは、日本人士官から1946年夏以前に聞き取ったとする、以下の証言から「1945年8月12日に北朝鮮の興南で日本が核爆発実験に成功していた」と主張した。
その主張を、米公文書館などの秘密解除された文書や関係者へのインタビューなどの、自らの調査結果に基づき、裏付けたのがロバート・K・ウィルコックスであった。
調査結果をまとめて1978年に、R・K・ウィルコックスの『日本の秘密戦争』の初版が出版された。しかし、以下のスネルの記事と同様に長年、「作り話」とされ、米国でも日本でも本格的な追跡調査はされてこなかった。
しかし、今秋『日本の秘密戦争』の第3版が日米同時出版されることになった。第3版では、政府部内でチームを組んでウィルコックスの主張について調査していた、元CIA分析員のトニー・トルバや元米空軍の画像分析・核兵器の検知の専門官だったドワイト・R・ライダーと名乗る人物の証言が、新たに追加されている。
その内容は実に驚くべきものである。翻訳者である私自身、翻訳を始める前は半信半疑だった。しかしほぼ翻訳を終えた現在では、日本が大戦末期の1945年8月12日に核実験に成功していたことは、ほぼ間違いのない歴史的事実と言えるのではないかとの見方に立つに至った。

2.スネルが主張した、日本による1945年8月12日の核実験の成功を示す証言


以下は、ウィルコックスの著書初版本の「序章」に記述された、スネルの日本人士官「ワカバヤシ」からの聴き取り内容の抜粋である。

第二次世界大戦終了直後に、米国の太平洋担当情報機関に衝撃的な報告がもたらされた。日本人が、降伏する直前に、原子爆弾を開発し成功裏に爆破試験を行っていたというものであった。その計画は朝鮮半島の北部の興南(「コウナン」と朝鮮名「フンナム」の日本名で呼ばれた)か、その近くで進められていた。その兵器が使用されるかもしれなかった、それ前に戦争は終わったが、造られた工場設備はソ連の手に落ちた。
1946の夏までには報告が出された。第24犯罪者取調べ派遣隊係官(のちに『ライフ』誌の特派員)のディビッド・スネルは、離任後に『アトランティック・コンスティテューション』にそれについて書いている。彼は多くの情報提供者の一人にその話についてインタビューを行った。彼は、朝鮮から日本の故郷に帰る途中の士官で、その計画の秘密保持の責任者であったという人物であった。
スネルが記述している、士官の語った内容とは、以下のようなものであった。
「興南の山中の洞くつで人々は、時間と競争で、日本側が原爆につけた名前である「原子爆弾」の最終的な組み立て作業を行った。それは日本時間で1945年8月10日のことであり、広島で原爆の閃光が光ったわずか4日後、日本の降伏の5日前であった。
北方では、ロシア人の群れが満州になだれ込んでいた。その日の真夜中過ぎ、日本のトラックの車列が洞窟の入口の歩哨線を通過した。トラックは谷を越えて眠りについている村を過ぎていった。冷え込んだ夜明け前に、日本人の科学者と技術者たちは、興南の船に「原子爆弾」を搭載した。
沖合の、日本海の小島の近くで、さらに大急ぎで準備が進められた。その日は一日中古い船、ジャンク、漁船が投錨地に入っていった。
8月12日の明け方、ロボット式のボートがポンポンと音を立てて錨の周りの船の間を抜けて、小島に達着した。ボートに乗っていたのは「原子爆弾」だった。
観測者は20マイル離れたところにいた。これまで過酷な作業に取り組んできた男たちは、その完成が遅すぎたことを知っていたが、この待機は困難で奇妙なものであった。
日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。その瞬間、海の向こうに太陽は顔をのぞかせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用の眼鏡をかけていた観測者が盲目になった。火球の直径は1,000ヤードと見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲になった。
激しい水と水蒸気によりかき回され、爆発点の真下にあった船は見えなくなった。錨の周りの外周にいた船やジャンクは激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5~6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気付いた。
「原子爆弾」のその瞬間の輝きは、東に昇ってきた太陽と同じ程度だった。
日本は、広島や長崎も褪せるほどの大異変である、原爆の完璧かつ成功裏の実験を成し遂げていたのだ」。
爆弾は日本海軍によりカミカゼ機に使うために開発されたと、士官は通訳を通じて、スネルに語った。米軍が日本の海岸に上陸したら米軍に対して特攻機から投下する予定だった。
「しかし、時間切れになった」とスネルは報告し、以下のように付加している。「観測者たちは急いで水上から興南に戻った。ロシア陸軍の部隊は数時間の距離に迫り、『神々の黄昏』が最終的な意味合いで始まった。技術者と科学者たちは機械を壊し書類を燃やし、完成した「原子爆弾」を破壊した。ロシア軍の一隊が興南に来るのがあまりに速かったため、科学者たちは逃げのびることができなかった」。
科学者たちはロシアに連行され拷問にかけられたと、士官は語った。しかし彼らは語ろうとはしなかった。「我々の科学者たちは、ロシア人に秘密を白状する前に、殺されることはなかった」。彼はそれを知っていると言った。彼は、逃れた一人とソウルで話したが、彼自身と同様に、送還された。
米軍の将校たちは混乱した。彼らは、日本人が原子爆弾に取組んでいたのを知っていたが、彼らが理論以上に進んでいたとは信じていなかった。今や彼らには、それとは逆の数多くの資料が立ちはだかっていた。すべての報告書は本質的には同じことを語っていた。その一部にも真実はないと信じるのは、困難であった。「これらの報告書は、大いに信頼に値するべきものと感じられた」と、セシル・W・ニスト大佐は、1946年5月1-15日付の、ワシントンの最上層部のみの目に触れることを意図した、そのG-2情報報告書において、興南について、そう結論付けている。

3.ウィルコックスが調査し解明した情報の要点


川島虎次郎将軍によれば、東条英機首相は1943年頃、仁科の計画に対する全面的支援を表明している。日本の科学者たちが、軍や政府から支援を受けていなかったとする見方は誤っている。
1945年5月までに、理研(理化学研究所)の仁科芳雄を中心とする二号計画は中止された。しかし、日本海軍は、ミッドウェーの敗北以降、原爆開発を目指すF号計画を本格化させ、陸軍の二号計画中止後、その遺産を継承し密かに核開発を続けた。
特に戦艦大和級の戦闘艦艇2隻の建造を中止し、その鉄鋼や銅、予算をF号計画に投入したのではないかとみている。それでなければ、日本国内での鉄鋼、銅などの不足が説明できない。
日本の戦時中の統治地域、特に北朝鮮には豊富な電力とウラン鉱石があった。
北朝鮮の水力発電量は350万キロワット、マンハッタン計画の倍以上の発電力があり、その中心地の興南の日窒(日本窒素肥料株式会社)では、豊富な電力を使いジェット燃料を製造していた。
興南の工場内には、警備の厳重な施設が一角にあり、高電圧のアーク放電による重水の製造などが行われていた。
満州最大の海城のウラニウム鉱山は、1938年に南満州鉄道の地質学者により発見され、10マイル以上にわたる二つの鉱脈が走っていた。
1944年11月からウランの採掘が始まった。ウランの抽出量は年間5トンから20トン程度だった。
戦時中日本は、特に朝鮮北部と満州でのウラン鉱の探査を最新の方法を使い行っていた。野口遵が創設した日窒は北朝鮮からモナズ石574トンを採掘精製し理研へ送っていた。
理研のソウルの精製施設には、ウランを含むフェルグソン石3トンが1945年7月には備蓄されていた。
日本の科学者、技術者の水準も高く、かなりの技術水準に達していた。一部では米国以上の水準に達していた。
荒勝は湯川秀樹を高く評価しており、湯川は臨界量決定の決め手となる、1個の中性子が核分裂した際の中性子の発生数を研究していた。湯川の功績が後のノーベル賞受賞につながった。
仁科は臨界量について、当時としてはかなり高度の計算を行っている。その点はドイツよりも進んでいた。
戦争末期には京都帝大の荒勝文策は、海軍の資金提供を受け、遠心分離機の設計を完了していた。遠心分離機の面では米国よりも進んでいた。
終戦直後の占領軍の調査により、日本国内の研究機関や大学にサイクロトロン以外にも核開発に関連した多くの設備があり、ウラン鉱石なども備蓄されていたことが、確認された。それが、1945年11月のGHQによる突然の日本のサイクロトロン破壊の主な理由だったとみられる。
日本は本土決戦用として陸海軍がそれぞれ4千~5千機の特攻機を準備し、核爆弾の使用も計画していた。
しかし、日本の核計画はソ連、中国にその情報を知られていた。
スターリンは、ローゼンバーグ夫妻などを使いマンハッタン計画を諜報していたが、米国よりもソ連に近い、日本の核開発についても諜報活動を行っていた。日本の科学者の一部にはソ連に協力的な者もいた。
朝鮮戦争中に、米軍と中共軍が激戦を繰り広げた長津貯水湖から海岸の興南に至る間の山中のコト・リというところで、米軍と韓国軍により、巨大な洞窟内の地下武器工場が確認されている。そこには日本製の機械類が据えられていた。
興南の山中の巨大な工場施設は、オークリッジの放射性同位体の熱拡散分離工場と「極めてよく似た」形状や機能を備えていることが、航空写真の画像分析から判明した。
その施設には、熱拡散分離工場に特徴的な、形状や水利施設、高圧線による豊富な電力供給、鉄道の引き込み線、3重の警備用フェンスなどが確認された。
日本の核計画の遺産の奪取とその活用なしには、ソ連があれほど早く1949年に核実験に成功したとは考えられない。スターリンは原爆開発を指令し、日独の科学者を拿捕し、ソ連の原爆開発に従事させた。
1945年8月にソ連は興南の核施設を破壊前に急襲して核関連設備などを根こそぎ略奪してソ連に送り、科学者と技術者を拉致した。
ソ連軍は長崎への原爆投下直後に、対日侵略を開始したが、その最大の目標は、興南の日本の核施設の奪取だった可能性がある。
ソ連は日本人科学者の協力も得て、戦後も興南で核関連の作業を継続していた。1947年6月の米軍の秘密報告によれば、興南でソ連人と、日本のNZ計画という新兵器開発計画に関与していた田村という日本人科学者が、秘密施設で高電圧アークを使い活動していた。生産物は潜水艦でソ連に定期的に輸送されていた。
蒋介石は1946年秋までに、瀋陽に原子爆弾作業のために一群の日本人科学者を集めていた。
朝鮮戦争参戦時に中国軍は、興南と咸興を目標にしていた。それが、両市に電力を供給していた長津貯水湖で中共軍が奇襲攻撃した主な理由だった。
内戦後間もない中共が朝鮮戦争参戦を決意した大きな理由の一つとして、興南の日本の核施設の奪取があった。中共は当時すでに核開発を決心していた。
現在の北朝鮮の核開発のインフラは、日本の遺産であり、中心となった核物理学者も日本統治下で日本の帝大などで育成された。

まとめ


日本の戦前戦中の核開発努力と能力は再評価されるべきであろう。特に仁科、荒勝、彦坂などの核物理学者と野口遵など産業界は卓越した貢献をした。
日本の科学者、学会は、国内では戦時協力者として非難され、占領軍に戦犯として逮捕されることを恐れたとみられるが、核協力の過去を隠ぺいしようとした。
しかし科学技術者が戦時に協力するのは当然のことであり、むしろ他国では誇るべきこととされている(なお、ウィルコックスも同じ見解を示唆している)。
激しい空襲と物資の欠乏する中、これだけの研究開発努力を続け、実績を上げた日本の科学者、技術者、産業界は再評価されるべきである。特に、彦坂の黒鉛減速型原子炉が稼働していれば、短期間にPu-239を抽出可能し核爆弾の燃料にできたであろう。荒勝の遠心分離機の開発は米国に先行していた。
NPT(核兵器不拡散条約)によれば、核兵器の保持を許される「核兵器国」は「1967年1月1日の時点で既に核兵器を保有している国」と規定されている。1945年8月12日に核実験に成功していれば、日本は核兵器国としての資格を持つ。
ソ連も中国も戦時中から核開発を知り、早くからそれを欲していた。蒋介石も同様だった。
北朝鮮の潜在力も過小評価できない。経済封鎖の下でも核開発ができることを日本は実証した。
米国は核不拡散の立場からも日本の事例を研究すべきだと認識している。日本の潜在力を封印するのが、日本の核開発を秘密にしてきた理由の一つであろう。
いま米政府の秘密が解除されるのは、日本の核開発黙認のシグナルかもしれない。
1990年代以降の中朝の核戦力増強により、2006年頃には米国の核戦力バランスの圧倒的優位が失われたとの認識が表れている。
例えば2006年の全米科学者連盟と米国国家資源防衛会議による共同報告では、中国が対米先制核攻撃に成功すれば、米国の被害は4千万人に上り、それに対する米国の核報復による中国の被害は2,600万人にとどまるとの被害見積りが公表されている。
同年には北朝鮮による初の核実験が行われた。その頃から、元政府内部の機密文書分析担当官のトルバやライダーによる、米政府内部の日本の核開発に関する秘密文書の、ウィルコックスなど部外者への公開が始まっている。
対中朝核戦争で勝利できる見通しが薄れるにともない、核の傘の信頼性は低下した。日本に対し核の傘の提供を保証することは、米国の望まない対中朝核戦争に米国が巻き込まれるおそれを高めることになった。
そのリスクを回避するには、体制と価値観を共有する日本の核保有を黙認し、独自の核抑止力を持たせ中朝に対する対日侵攻への抑止力を強化するのが、米国の国益上有利と、米国指導層は2006年頃に判断したのではないかとみられる。
日本の第二次大戦中の核開発努力が再認識され、日本の潜在能力が正当に評価されるようになれば、今後、日本の自立的な核抑止力が強化され、日本の国力、特に威信、防衛力と外交交渉力が高まるだけではなく、東アジア全般の安定と平和にもつながるであろう。
併せて、台湾と韓国の潜在的な核開発・配備能力を容認し、実質的な日韓台の核抑止トライアングルを形成すれば、中国の西太平洋への侵出や台湾海峡危機、尖閣危機、南北朝鮮の軍事衝突を抑止でき、中朝ロによる核恫喝に屈するおそれも減り、外交的政治的にも危機時の死活的国益の擁護につながると思われる。
米国にとっても、日韓台に対し米国との信頼関係に基づき、独自の核抑止力、少なくとも即時に機能させうる潜在的核抑止能力を認めることは、米国の国益にとり不利なことではない。
そうすることにより、中朝ロに対する独自の核抑止力が高まり、日韓台がこれらの諸国による核恫喝に耐えることができるようになる。また、日韓台の核抑止力と米国の核抑止力のリンケージが確実に保証されることから、核の傘の信頼性も維持されるであろう。
東アジアにおける核抑止態勢は、従来の米国による単独抑止から、多国間抑止に移行するべき時に来ていると言えよう。
日本は、大戦末期から現在に至るまで高度の潜在的な核能力を持ち、かつ唯一の被爆国であり、域内で中国に対抗しうる大国として枢要な立場にある。日本は、東アジアの核抑止態勢の中心的担い手となり、域内のみならず世界全体の安定と平和に積極的役割を果たすことができる能力と責任を有している。




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発表時期:2017.06.07

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