コラム

生存権の罠

河原昌一郎

  先日、ある集団がデモ行進を行っているところに出くわし、その通り過ぎるのを待っていたところ、「憲法9条改正反対、憲法25条の生存権を保証しろ。」というかけ声が耳に入ってきた。憲法9条の問題はともかく、25条をなぜ持ち出すのだろうといぶかる人も多いと思う。このことを考えるに際しては、生存権に関する中国の事情がいい参考となるので、まずこれについて簡単に触れておきたい。

  中国では、憲法上、国民の権利として最も重視されるのは生存権であるとされている。そして、その生存権を保証しているのが中国共産党であり、国民は共産党に感謝しなければならないということが強調され、自由権の問題には触れられない。ここでの論理は端的に言えば、たとえ自由はなくても命が保証されれば感謝すべきだということである。生存権が国民からの自由の剥奪、奴隷化の口実に利用されているのである。

  上述のデモで憲法25条が持ち出されたのは、自分たちには平和に生存する権利があるが、憲法9条を改正して戦争になればその権利が奪われるという考え方によるのであり、この考え方は平和的生存権などともっともらしく呼ばれている。

  しかしながら、この考え方は中国と同じで、自由に生きる権利をあえて排除している。上述のデモの主張は、さらに言えば、自分たちには生きる権利があるのだから外国が攻めてきても戦争や抵抗をしてはいけない、そのまま外国に統治されなさい、命だけ保証してもらって奴隷として生きていきなさい、というものである。このデモの正体が見えるであろう。何となく耳障りのいい平和的生存の主張には奴隷的生存が包み隠されているのである。

  ベンジャミン・フランクリンの「安全のために自由を犠牲にする者は、自由も安全も手にすることはできない」という言葉を改めてかみしめたいものである。


発表時期:2015年2月
学会誌番号:31号

コメントを残す

*

PAGE TOP