河原論説

転機を迎えた南シナ海情勢-「航行の自由作戦」とフィリピン対中提訴の動向-

河原昌一郎

 南シナ海をめぐる情勢はますます緊迫の度を強めつつある。それとともに、南シナ海に関する報道も増加しているが、南シナ海問題の性格はかつてとは大きく変化している。

 従前は、南シナ海における紛争は主として島礁の領有権をめぐる争いであった。この領有権をめぐる争いには、単に外交的なものから実力・軍事措置を伴うものまでいろいろな態様があるが、とりわけ中国はときに戦争も辞さない対応でその支配領域を拡大してきた。中国は、1974年に当時の南ベトナムとの交戦を通じてパラセル諸島全部を支配下に収め、1988年にはベトナムとの海戦を通じてスプラトリー諸島の一部を支配するようになった。ジョンソン南礁、ファイアリー・クロス礁、スビ礁等は、このときの海戦で中国が支配下に収めたものである。中国はさらに、1995年にミスチーフ礁からフィリピンの支配を排除して同礁への建造物建設を進め、2012年にはスカボロ礁から同じくフィリピンを排除して同礁を実質的に支配するようになっている。

 こうした事例からわかるとおり、従前においては、島礁の領有をめぐる当事国の関係や各国の行動に最も高い関心が払われ、それに関する武力不行使や各国の自制が南シナ海問題の中心的な課題だったのである。2002年南シナ海行動宣言(ASEAN諸国および中国が署名)はこうした懸念に対応したものであった。もちろん航行の安全についても言及はされていたが、それほど深刻にはとらえられていなかった。

 ところが、中国が自国の支配する島礁で大規模な埋立て工事や空港・港湾施設等の建設を急速に進展させたことによって、南シナ海問題の性格は中国の支配をいかに阻止して航行の自由または海洋法秩序を守るかという問題へと変化したのである。

 中国がファイアリー・クロス礁に建設を進めていた3000m級の滑走路はほぼ完成したものと見られている。また、スビ礁でも陸地造成の状況等から同じく3000m級滑走路の建設が進められている可能性があることが示唆されており、さらに、ミスチーフ礁でも滑走路建設が進められているのではないかと見られている。

 中国が南シナ海で人口島の埋立て工事、施設建設等を進める主要な目的は、中国の公式的説明はともかく、もとより軍事的なものである。南シナ海での大規模な空港や港湾建設が完成し、有力な中国海空軍の配備が進めば南シナ海が徐々に中国の海となり、他国の軍事行動が大きく制約されることとなろう。南シナ海は潜水艦の行動に適した水深があるが、南シナ海が聖域化すれば中国は他国の追尾を気にせずに安心して弾道ミサイル搭載の戦略原潜を南シナ海に潜ませておくことができる。また、南シナ海のシーレーンやマラッカ海峡は実質的に中国のコントロール下に置かれることとなる。さらに、これら人工島へのレーダー設置等が進み、対空能力が向上すれば、南シナ海の防空識別圏設定に踏み切る可能性もある。

 2015年5月に公表された『中国の軍事戦略』、いわゆる中国国防白書では、「海軍部隊は常態的な軍事的パトロールを組織的に実施し、関係海域での軍事的存在を保持する。空軍部隊は平時戦時一体、全域での反応、全区域への到達という原則を堅持し、機敏で高効率の戦争準備状態を保持する。」と規定するが、この規定はまさに主として南シナ海を意識し、南シナ海でこうした状況を実現させることを意図したものとしてよいであろう。現在建設が進められている空港・港湾は、こうした軍事的状況を作り出すための軍事基地として考えられているのである。

 また、中国は、領海および排他的経済水域で海洋法にはない独自の要求を行っている。すなわち、中国領海法第6条で「外国軍用船舶が中国領海に侵入するときは、中国政府の許可を得なければならない」と規定し、軍艦についてはたとえ無害通航であっても事前の許可を求めている。排他的経済水域についても、中国排他的経済水域法第11条で「いかなる国家も・・中国の法律、法規を遵守するという前提の下で中国の排他的経済水域を航行することができる」と規定して、軍艦が中国の排他的水域を航行する場合には無条件ではなく、領海と同様に事前許可が必要であることを主張しているのである。

 こうした中国の動きに対して、南シナ海が中国の海となることを拒否し、国際法で認められている航行の自由を守るために軍事行動も辞さないことを内外にアピールしたのが2015年10月27日からアメリカによって実施された「航行の自由作戦」であった。同作戦でアメリカは、横須賀基地に所属するイージス駆逐艦ラッセンを中国が人工島を建設しているスビ礁の12海里内の水域を航行させた。また、B-52戦略爆撃機2機に問題の人工島近くの空域を飛行させ、海空での対抗措置を講じたのである。アメリカは「航行の自由作戦」を今後とも定期的に行うとしている。

 この「航行の自由作戦」とともに、南シナ海での海洋法秩序を守るという面でもう1つ大きな意味を有するのが国際仲裁裁判所で行われているフィリピンによる対中国提訴の審理の動向である。フィリピンは2013年1月に南シナ海問題で中国を国際仲裁裁判所に提訴した。提訴では、九段線等の中国の南シナ海での主張、行動は海洋法条約に違反して無効であり、また、中国は国際的な海洋秩序に従おうとしていないことを主張している。島礁の領有権問題は海洋法条約の管轄外とされていることもあって提訴では触れられていない。

 これに対して中国は、フィリピンの提訴に強く反発し、仲裁裁判における仲裁人(中国側代理人)も指名しなかった。裁判所には、中国が南シナ海での島礁について争いの余地のない主権を有していること等を主張した口上書を届けたのみで、仲裁裁判における審議には一切応じず、裁判を事実上ボイコットした。そして、フィリピンに対しては今回の提訴は中比二国間関係を傷つけるものだ等の威嚇的発言を行い、提訴を取り下げるよう圧力をかけるとともに、人民日報等においてはフィリピンを悪罵するかのような記事の掲載を続けている。

 こうした中で国際仲裁裁判所は本件の仲裁裁判員5人を任命し、中国不参加のままで、同裁判所が本件提訴の強制管轄権を有しているかどうかの審理を行ってきた。海洋法条約は、同条約の規定の適用に関することは相手国の同意を必要とせずに裁判を行うことができるいわゆる強制管轄権(第287条第5項)を規定しているが、本件がこれに該当するかどうかを審理してきたのである。2015年7月7日から行われた当事国からのヒアリングでは、フィリピンは総代表弁護士のほか、外務大臣、法務大臣、国防大臣、最高裁裁判官、国会議員、大使等を含む約60人の代表団を派遣した。フィリピンがこの裁判に国家を挙げて、まさに国運を賭して臨んでいることが窺えよう。

 国際仲裁裁判所は、2015年10月29日、フィリピンの提訴した事項に強制管轄権があることを認め、今後、仲裁手続きを進めることを決定した。これによって、中国の不参加にかかわらず、同裁判所が所要の審議を経てフィリピンの提訴内容にしかるべき法的決定を行うことが確実となった。米国国防当局者はこの国際仲裁裁判所の決定に直ちに歓迎の意を表明した。また、米国国務省報道官は定例会見で同仲裁裁判所の決定は中国にも拘束力を持つとの見方を示している。

 以上のとおり、現在の南シナ海問題は、中国が強大化した軍事力を背景に、南シナ海での軍事基地建設を急速に進め、南シナ海を実力で支配しようとしているのに対して、アメリカをはじめとした関係国がこれをいかに阻止するかという構図へと移行している。ただし、南シナ海の海洋秩序を守るためにはアメリカ1国の取組みでは十分ではなく、関係国の緊密な連携・協力が求められることは言うまでもないだろう。「航行の自由作戦」も関係国の支持があってはじめてより効果的なものとなる。特に、国際仲裁裁判所が中国の行為は海洋法に違反して不法だと判定しても、国際社会が中国にその判定に従うよう有効に促すことができなければ、同判定はほとんど意味のないものとなろう。

 我が国は南シナ海のシーレーンによって最大の恩恵を蒙っている国である。南シナ海の海洋秩序維持のために積極的な貢献が求められるのは当然である。我が国の行動が、同盟国のアメリカからだけでなく、今後の南シナ海情勢を左右し得るものとして東南アジア諸国からも注目されていることは常に念頭に置いておく必要があろう。


発表時期:2016年2月
学会誌番号:35号

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