河原昌一郎
南シナ海パラセル諸島(西沙諸島)付近海域で、今年5月初旬から中国が石油掘削活動を開始したことはベトナムの強い反発を招き、南シナ海における緊張が再び高まることとなった。ベトナムの主張によれば、掘削現場はベトナムの沖合約120カイリにあり、ベトナムの排他的経済水域および大陸棚に含まれる。現場海域では、掘削を阻止するために派遣されたベトナム船舶が中国公船と衝突するという事件が相次ぎ、ベトナム側に複数の船舶の破損、負傷者の発生という被害が出ている。
こうした事態に、アメリカが中国の行動を「挑発的」として非難する等、国際社会は中国への批判を強めているが、中国はかまわず掘削を継続している。
もとより中国が南シナ海でこうした強硬な態度をとるのは今回が初めてではない。近年では1995年に中国がミスチーフ礁に軍事施設を建設したことによるフィリピンとの対立、さらには2012年のスカボロー礁での中国・フィリピンの対立と中国による占拠等の事件が記憶に新しいが、これらはいずれも双方による実力の行使・衝突を伴うものであった。
南シナ海における中国のこうした行動は、言うまでもなく、中国の軍事的、経済的要因等に基づく海洋戦略を背景としたものであるが、この中国の南シナ海での海洋戦略は「戦略的国境」という概念と不可分の関係にある。
「戦略的国境」の概念は、1987年に、中国人民解放軍の機関誌である『解放軍報』に掲載された徐光裕氏の「合理的な三次元の戦略的国境を追求する」という論文において主張されたものであり、その後、海洋戦略に関する新たな概念として広範に提唱され、定着化するようになったものである。
同論文によれば、「戦略的国境」は、「地理的国境」の概念と対比される。地理的国境は国際法および国内法によって画定された国家の領土領域であり、相対的に安定している。これに対して、「戦略的国境」とは、国家が合法的に得られるべき利益との関係で、国家が現実にコントロールできる領域のことである。すなわち、国家の能力が大きければ国家のコントロールできる領域は拡大し、それだけ国家の得られるべき利益も大きくなる。したがって、「地理的国境」に比較すると「戦略的国境」は相対的に不安定であり、国家の能力に応じて変化し、地理的国境より大きいこともあれば小さいこともある。
一方、南シナ海における領土、管轄権の主張について、中国は、「九段線」と呼ばれる線の内側を主権的権利の及ぶ範囲として主張している。「九段線」とは、中国によって南シナ海に独自に引かれた九つの断続線から成るU字形をした線のことであり、南シナ海のほぼ全域にまたがり、同海域の90パーセントがこれに含まれる。中国は、この「九段線」の内側の海域は歴史的に中国が支配してきた海域だとして、同海域にある全ての島礁の領有権と同海域の主権的権利を主張しているのである。
ところが、南シナ海の現実を見ると、中国が南シナ海でコントロールしている領域は、現在ではごく一部の限られた領域にとどまっている。上述の「戦略的国境」という観点からこうした南シナ海の現状を見れば、状況は決して中国にとって好ましいものではないということとなろう。
したがって、中国にとっての南シナ海での目標は、現在では限られた領域しかコントロールできていない南シナ海での「戦略的国境」を「九段線」にまで拡大、一致させることであり、そのことが中国の南シナ海における基本的な海洋戦略であるということとなる。
中国が南シナ海での「戦略的国境」を変更しようとすることは、すなわち南シナ海の現状変更を試みることである。そして、中国国内の議論では、この現状変更には、当初は非軍事的な行動で対応するものの、最終的には軍事力行使は排除されないとされている。
南シナ海での現状変更のための中国の非軍事的行動は、これまで、主として①国内法規の整備、②非軍事的実力行使、③外交交渉・圧力の3つの態様をとって進められてきている。
①の国内法規の整備では、たとえば、領海法(1992年)の制定によって南沙諸島等が中国領土であることを宣言したこと、三沙市の設立(2012年)によって管轄行政庁と管轄範囲をあらためて明確化したこと、南シナ海での外国漁船に対する規制を制定、施行したこと(2014年)等が挙げられる。これらは、現場海域での中国の行動に国内法による根拠を与え、正当化するために用いられる。
②の非軍事的実力行使は、他国が現在支配している海域に民間船を侵入させること、漁船操業を活発化させること、公船による調査活動等を常態化させることといった形をとってまず行われる。そして相手国の反応を見ながら、すきがあれば公船によって領海侵入等を繰り返し、同海域での国家権力の行使等により、他国支配の事実上の侵食、否定、そして剥奪を試みるのである。
また、この非軍事的実力行使では、他国の支配・警備が不十分と見られる海域ではまず同海域を占拠し、その後、他国船舶の海洋利用を排除して同海域の実質的な支配を確保するということも行われている。先に述べた1995年のミスチーフ礁の事例はまさにこれに該当するものであり、同海域では現在でもフィリピン船の航行、操業が中国によって妨害されるという事件が多発している。
こうした実力行使は、たとえ非軍事的なものであっても、必然的に相手国の激しい反発と直接的な軋轢を惹き起こさずにはいない。ところが、中国は、相手国が現実的に有効な反撃手段を持たないことを見越したかのように、こうした反応にはかまわず非軍事的実力行使を継続し、実質的な支配強化の試みを続けている。
③の外交交渉・圧力は、軍事的、政治的、経済的優勢等を背景とした圧力を相手国に加え、外交交渉を通じて現状変更の既成事実化を図ろうとするものである。こうした圧力による交渉が有効なのは、もちろん二国間交渉においてであり、中国が南シナ海問題で二国間解決を強調するのはこうした思惑があるためであると考えてよいであろう。
その一方で、多国間の交渉では、平和的解決、問題棚上げによる共同開発等の原則的主張に終始し、多国間で何らかの制限や義務を負うことは極力回避しようとする。中国が2002年にASEANとの「南シナ海行動宣言」に参加したものの、同宣言を法的拘束力のある義務的なものにしようとする動きに消極的なのは、こうした中国の考え方を反映したものである。
上述の中国の南シナ海での非軍事的行動は、もちろんこれらの三つの態様が個別に行われているのではなく、南シナ海での現状変更、すなわち中国のあるべき「戦略的国境」の実現に向けて相互に関連しつつ進められている。そして、特に②の非軍事的実力行使は、多くの場合、軍事力による威圧を伴って進められる。今年5月のパラセル諸島付近の石油掘削現場海域、2012年のスカボロー礁等では、いずれも中国の海軍艦艇が配備されていたことが報道されている。中国の南シナ海での海洋戦略では、最終的選択肢としての軍事力行使が常に背後に用意されているのである。
中国は、今後とも「戦略的国境」という概念に突き動かされて、南シナ海での現状変更を試み続けるであろうが、上述の「戦略的国境」に関する中国の行動から明らかなとおり、その基本的コンセプトは「力の支配」ということである。現実に力を有する国家がより望ましい「戦略的国境」を実現してより多くの利益を得ることができるのであり、力の劣る国家は望ましい「戦略的国境」を実現できなくてもそれに甘んじるしかない。まさに力の論理であり、そこには「法の支配」といった観念の入る余地はない。
「力の支配」は、中国指導部を支配する基本的価値観であるとも考えられ、そうした考え方からすれば、「戦略的国境」は中国指導部の基本的価値観の一つの具体化としてとらえることもできよう。
南シナ海では、我が国やアメリカをはじめ、多くの西欧諸国や東南アジア諸国が「法の支配」の実現を求めている。しかしながら、現実の中国の南シナ海での海洋戦略は、上述のとおり、これとは全く相容れないものである。中国が「法の支配」の観念を受け入れる可能性は少なく、中国が妥協に応じるときは、自国の力の劣勢を認めたときである。
東シナ海で中国との問題を抱える我が国は、こうした南シナ海の動向を他山の石として中国への対処を考える必要があることは論を待たないところである。
発表時期:2014年5月
学会誌番号:29号