河原昌一郎
台湾の蔡英文政権は、自身の推進する外交を「堅実外交」と呼んでいる。この堅実外交について、台湾外交部が今年8月に行った外交政策に関する世論調査によれば、台湾住民の70パーセントが堅実外交を「支持する」としている(2017年8月21日台湾週報)。ところが、その一方で、蔡英文に対する台湾住民の支持率の低下は止まらない。蔡英文が総統に就任した直後の2016年5月の支持率は69.9パーセントという高いものであったが、その後は一方向に減少を続け、1年後の2017年5月には28パーセントにまで下落した。不支持率は就任直後の8.8パーセントが1年後には56パーセントにまで急増している。
もちろん、蔡英文の支持率には外政だけでなく内政の状況も影響している。若者の就職状況があまり改善されていないことや、年金改革等の不人気政策が支持率の低下につながっていることは間違いのないところであろう。しかしながら、台湾という国家の性格上、台湾住民の外交への関心度は高く、外交の状況が支持率に大きく影響する。そうであれば、堅実外交への高い支持率は蔡英文への支持率をもう少し引き上げてもいいように思われるが、実際にはそのようになっていない。このことは堅実外交の性格によるものと考えられるが、それでは、堅実外交とは一体何なのだろうか。
蔡英文政権の説明するところによれば、堅実外交とは、諸外国と相互利益のために助け合うことを目指す地に足のついた外交のことであるという。すなわち、国交がある国(国交国)等への対外支援にあっては二国間対話を通じてプロジェクトを推進し、自由および民主の価値観を共有する国々とは互恵関係を構築することである(台湾外交部『中華民国のしおり2017』39頁)。要は現在ある国交国等との外交関係を基礎にして、相互利益という観点から、その関係をさらに確実なものにし、また高めていこうというものである。
この堅実外交の性格をもう少し明確にするために、民主化以降の歴代政権の外交と何が違うかを見ておこう。
まず、民主化直後、李登輝政権が推進した外交は「実務外交」であった。李登輝は、それまで台湾が行ってきた全中国を代表する政府としての外交をやめ、まさに民意に基づき台湾を代表する政府としての外交に転換した。そして、国交がない国であっても積極的に経済的交流等の実務的関係の強化を図ることとし、台湾の実質的な外交空間の拡大に努めた。そこには台湾の国交国の減少が続くことによる外交空間の縮小への強い危機感があった。しかしながら、堅実外交には、国交国を維持しようという意図は認められるものの、李登輝の外交ほどの危機感や外交空間拡大への積極性が感じられない。堅実ではあっても、意欲に欠ける印象を伴うのである。台湾にとって、外交空間の維持・拡大は生命線とでも言うべき重要な課題である。国交国がなくなれば、国連での活動等にも不便が生じ、台湾の外交能力は大きく減殺されることとなる。台湾住民もそのことに不安を感じ、そうした事態への対応策を求めている。ところが、2016年12月にサントメ・プリンシベと、2017年6月にはパナマと断交に追い込まれたが、それを補う対抗策は講じられず、台湾住民に不満を残すものとなっている。
李登輝の後の陳水扁は、「民主外交」を推進した。陳水扁は、李登輝の実務外交を受け継ぎつつ、台湾が民主主義の普及に国際社会で積極的な役割を果たすことによって、国際社会での地位を高めるとともに、民主主義国である先進諸国家からの理解と支援を得ようとした。李登輝と手法は異なるが、国際社会での地位を向上させ、台湾の外交能力を高めようとした方向性や意欲では一致している。堅実外交にはこうした方向性を認めにくく、意欲に欠ける印象を伴うことは前述のとおりである。
ただし、陳水扁の外交は、この後、2001年の同時多発テロによって米国が中国を重視した外交政策をとるようになったこと等によって頓挫し、また国交国を何とか維持しようとして中国と競争する「金銭外交」に陥った。国交国との断交を避けるために、中国を上回る援助ないし資金供与をしようしたために台湾の負担は重く、しかもその資金をめぐる不祥事もあり、金銭外交は台湾住民から強い拒否反応と非難を浴びることとなった。このような経緯を踏まえ、堅実外交は、こうした金銭外交を行わないこととしている。前述の台湾外交部の世論調査によれば、国交国を維持するための金銭外交を行わないことについては、72パーセント以上が賛成している。実際、台湾は、前述のサントメ・プリンシベとパナマとの断交に至ったときも、金銭外交を行うことはなく、これについて世論の反対もなかった。ただ、このことは、堅実外交への積極評価ではなく、金銭外交への強い拒否感によるものとすべきだろう。
次の馬英九は、李登輝、陳水扁の外交とは全く性格が異なる「活路外交」を推進した。活路外交とはすなわち台湾の外交の枠組みを中国と相談の上で決めておき、その枠内で外交を行おうというものであって、台湾を、事実上、中国の従属的地位に置くものであった。馬英九は台湾を中国の一地区としてとらえ、自主独立の国家という立場を強く打ち出さなかった。このことは、李登輝、陳水扁が、台湾が自主独立の国家であることを前提として外交を進めたことと対照的である。蔡英文の堅実外交は、もとより馬英九の活路外交とまったく訣別し、外交の前提となる国家観は李登輝、陳水扁と同じである。ただし、李登輝、陳水扁の外交と内容的に大きな相違点があることは前述のとおりである。
さて、これまで見てきたところから明らかなとおり、蔡英文の堅実外交の特色は、内容的には特に問題なく誰もが賛成でき、支持されるものの、台湾の国際的地位の向上や外交空間の維持・拡大に向けた強い積極性や意欲が十分に感じられず、受け身に終始したものとの印象を持たれ、政権浮揚にはつながらないものであるということである。
こうした蔡英文の堅実外交の一方で、中国はあらゆる手段を用いて台湾に対する外交圧力を強めている。2016年6月に中国は中台の連絡・交流窓口の停止を表明した。その後、同年7月のFAO(食糧農業機関)水産委員会、同じく9月のICAO(国際航空民間機関)総会では、いずれも前回までは台湾は出席できていたものが、今回は出席できなかった。注目されていた2017年5月のWHA(世界保健機関総会)には結局台湾は招待されなかった。台湾と国交のない国に、台湾は経済交流のための商務所を置いているが、この商務所が首都から地方への移転を要求され、また、「中華民国商務所」の名称が「台北商務所」に改名させられている。中国から台湾への2016年の観光客数は前年比14.4パーセント減少した。こうした中でのサントメ・プリンシベとパナマとの断交は、蔡英文政権の外交に大きな打撃となったことは否定できない。
中台関係について、蔡英文は「現状維持」を主張し、中国の圧力には屈せず徹底して抵抗する方針を明示している。中国は、中台交流の前提として、中国が一つであることを認めたとするいわゆる「92年コンセンサス」を受け入れることを求めているが、蔡英文はそれを受け入れず、したがって中台間の交流は閉ざされたままである。しかしながら、蔡英文の側からのそうした事態への対抗策や打開策は打ち出されず、中国側から押されるままで、じりじりと外交空間の縮小を受け入れる結果となっている。
このような蔡英文の堅実外交または現状維持については、台湾の独立派および統一派の双方から非難を浴びるようになっている。独立派はもっと積極的に台湾が実質的に独立した国家であることを対外的にも強調する政策をとるべきだと主張し、統一派は中国との交流を再開させて中国ともっと話合いを行うようにすべきだと主張するのである。
蔡英文政権への支持率の低下や批判の高まりを受け、また、パナマとの断交を契機として、蔡英文は、両岸関係について現状維持の変更を含めてあらゆる可能性を排除せず再検討することを発表するとともに、「今は夜明け前の暗闇」(2017年6月15日自由時報インタビュー)だと述べ、今後、新しい方策を打ち出す方針を示唆した。今年9月に開催された国連総会で、台湾が国交国等を通じて、国連は台湾住民2300万人が国連システムから排除されているという状況を、実際の行動をもって改善すること等の呼びかけを行うこととした(2017年9月12日台湾週報)のは、その表れであろう。
いずれにしても、蔡英文政権の今後はその新たな動きを見守るしかないが、従前の堅実外交では蔡英文の未来はない。台湾の内外政で、自由と民主を求める台湾住民の期待に、蔡英文がどのような具体策で応えることができるかが、蔡英文政権の今後を決める鍵となろう。
発表時期:2017年11月
学会誌番号:42号