河原論説

中国の新「国家安全法」-全面的強権弾圧体制の強化-

河原昌一郎

 2015年7月1日、中国は全国人民代表大会常務委員会の議決を経て「国家安全法」(新国家安全法)を制定し、即日施行した。新国家安全法は、中国の安全保障法制では極めて特殊な内容を有するものであり、また、習近平政権の国家安全に関する考え方を如実に示したものとなっている。この新国家安全法の位置付けを理解する上で必要と考えられることから、先に、中国の安全保障法制の流れをごく簡単に振り返っておきたい。

 中国で安全保障法制は、その時々の情勢に応じて、その都度制定されてきた。主要なものを列挙すれば、1993年の国家安全法(旧国家安全法)、1997年の国防法、2005年の反分裂国家法、2010年の国防動員法、2014年の反スパイ〔反間諜〕法等が挙げられよう。

 旧国家安全法は、改革開放とともに強まっていた和平演変(平和的政府転覆)への恐れ等に対応しようとするもので、国家秘密の保護、各種スパイ活動に対する情報収集、政権転覆等の陰謀の鎮圧等を内容としたものである。国防法は、人民解放軍の近代化が求められる中で、国防に関する国家の役割、国防の財源確保、国防教育等に関する基本的事項を定めている。反分裂国家法は、陳水扁政権下の台湾の独立を阻止するため、独立に向けた動きに対しては軍事的措置を辞さないことを規定した。国防動員法は、国家の主権、統一、領土または安全に対する脅威があるときに、人民、物資、資源等を動員できるものとし、その原則を定めたものである。同法によれば、外国企業を含め全ての組織または個人は徴用の義務を受け入れなければならない。

 以上は江沢民または胡錦涛時代の立法であるが、習近平時代になると2014年1月24日に設立され同年4月15日に第1回会議が開催された国家安全委員会の主導の下で国家の安全に関する各種の施策が進められるようになった。同委員会の所掌は軍事、公安だけでなく、外交、司法、情報、宣伝等、およそ国家の安全に関する部門が網羅的にカバーされており、かつて例のない極めて広範なものとなっている。同委員会の主席は習近平が自ら占めている。

 同委員会は、第1回会議において、政治の安全、国土の安全、軍事の安全、経済の安全、文化の安全等を一体化した新たな国家安全体制を構築することを示していたが、反スパイ法の制定(2014年11月1日、同日施行)はその第一弾と目されるものであった。反スパイ法は旧国家安全法を全面的に見直し、その反スパイ部分だけを取り出し、スパイ活動の取締りを強化したものである(旧国家安全法は反スパイ法制定時に廃止)。同法では、スパイ活動の取締りは中央の統一的指導の下に、積極防御という考え方で能動的に行う姿勢を明記している。

 今回の新国家安全法は、その第二弾であるが、同法によって習近平政権の国家安全に関する基本的姿勢または方針が明示され、その実行のための法制度の枠組が整えられたとしてよいだろう。

 新国家安全法は、①国家安全に危害を及ぼし得るとする行為を人間活動の全ての分野に及ぼしたこと、②中央国家安全指導機関が国家安全業務遂行に関する一元的な権限を有すること、という大きな特色を有している。

 江沢民、胡錦涛時代の立法は、それぞれ国家安全の個別の分野を対象としており、また実施機関も具体的に指定され、罰則も比較的明確であった。習近平政権下の反スパイ法では中央の統一的指導という考え方が盛り込まれ、国家安全に関することは中央直轄という色彩が強まったが、対象は個別のものであった。

 ところが、新国家安全法では、国家安全の定義は「国家の政権、主権、統一、領土保全、人民福祉、経済社会の持続的発展、その他国家の重大利益に危険がなく内外の脅威を受けていない状態」(同法2条)であるとされ、経済、社会、文化活動等であっても国家の利益を害すると見られるものは同法の取締対象となり、その適用範囲が事実上無制限なものとなっている。ただし、同法の重点が、外国との戦争ではなく、国内に置かれていることには留意しておきたい。また、同法では国家の個別の実施機関でなく、中央国家安全指導機関に権限が集中され、同機関の統一的な指導、決定に基づき国家安全業務が遂行されることとなっている(同法5条)。ここでの中央国家安全指導機関とは、現状では、言うまでもなく習近平が主席を務める国家安全委員会である。

 さらに同法では罰則規定があいまいである。たとえば民族分裂活動、宗教利用危害活動等に対して「警備し、制圧し、法により罰する」(同法25条、26条、27条、28条)と規定しているが、こうした漠然とした規定では状況によってどのような規制、処罰を行うことも可能である。すなわち、新国家安全法は、習近平を主席とする国家安全委員会が国家安全に関する事実上無制限な権限を有することを法的に明確化したものなのである。

 ところで、中国の国家安全は、日本や欧米諸国のそれとは概念が異なっている。日本や欧米諸国の国家安全は、まさに国家の安全保障のことであり、その時の政権の維持とは関係がないが、中国の国家安全は、国家そのものはともかく、「人民民主専政政権の防衛」(同法1条)すなわち共産党独裁政権の維持が究極の目的とされている。共産党政権を維持するとは、現在では、とりもなおさず習近平政権を維持することである。

 新国家安全法の制定の目的も、本質的にはそういうところにあるのであり、新国家安全法での規定は、ある意味で習近平政権の現状に対する危機意識の表れでもある。習近平政権は、経済活動を含めたあらゆる社会活動が、場合によっては政権存続を脅かす脅威となり得るのであり、それへの対処が必要なものと考えているのである。

 今年7月上旬に起こった上海株下落への対応は、こうした習近平政権の考え方を反映したものとなった。習近平政権は、上海証券取引所に上場している銘柄の約半数の取引停止、政府による大手国営企業株の購入、投資信託のファンドマネージャーによる自己ファンド購入といったなりふり構わぬ措置を講じて相場に介入した。そして、株価下落が何者かによって意図的に引き起こされた可能性があると見て、同問題を政治問題化する動きを監視するよう通達するとともに、関係者処罰のため原因究明に乗り出したという。このことによって、中国株の操作性が明らかとなり、中国株は内外の投資家の信用を全く失うこととなったが、習近平政権は株価下落が体制存続を脅かす危機になるかもしれないと考え、体制存続のための対処を優先させたのである。

 また、今年7月には、中国国内の人権派弁護士や活動家が相次いで拘束され、その数は100人以上に上ると報道されている。こうした動きは、以前よりも強化されており、習近平政権が国家安全のために、すなわち体制存続のために、民主的運動に対する強権弾圧を容赦なく進めていることを示すものである。

 新国家安全法は、台湾問題については、「国家主権の維持、統一および領土保全は香港、マカオの同胞および台湾同胞を含む全中国人民の共同義務である。」(同法11条)と規定して香港、台湾の住民にも統一を義務付けた規定を設けた。このため、香港、台湾の独立運動等に関与する香港、台湾住民からは、うっかり大陸に渡航すると同法違反で逮捕されかねないといったことも懸念されている。

 習近平政権は、新国家安全法の規定の具体化のために、さらに、テロ対策を強化するための「反テロ法」、NGO活動を規制するための「NGO管理法」を制定することを検討しているとされる。新国家安全法を中心としたこうした法制度の整備によって、今後中国では、習近平政権によるあらゆる分野を対象とした全面的強権弾圧の体制がますます強化されていくであろう。国家安全のためには、強権弾圧こそが唯一の手段なのであり、それ以外の選択肢は全く用意されていない。

 しかしながら、経済活動、文化活動等を含めた全面的な強権弾圧は、これらの自由な活動を萎縮させ、健全な経済発展や社会発展を阻害することは避けられない。その結果、経済格差や社会矛盾がますます激しいものとなり、国内での体制への不満が高まり、結局、国家安全の基礎を揺るがすこととなろう。すなわち、全面的強権弾圧はいつまでも続けられるものでなく、そうした政権はいずれ瓦解するほかはない。全面的強権弾圧は、その政権の存続のために当分は有効かもしれないが、結局は国家を滅ぼすこととなるのである。


発表時期:2015年8月
学会誌番号:33号

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