河原昌一郎
次のような質問に皆さんはどう答えるだろうか。
「ここに50人から成る社会がある。その中には各5人の家族が10家族あるとする。この社会が新たに統治方式を決める場合、家族は全て廃して1人の長を決め、残りの者はそれぞれの能力に応じて役割を分担し、子供は特定の施設で養育するといった方式がいいと思うか、それとも家族は存続させて10家族の連合体として統治や役割分担のあり方を考えていく方式のほうがいいと思うか。」
要は社会の繁栄と安定に家族が必要かどうかという問いなのであるが、大多数の人は上記質問には家族を存続させたほうが良いと答えるだろう。そしておそらくそれが正解である。
上記質問については、実際、これに回答を与えるような社会実験が行われたことがある。それが中国の初期の人民公社である。初期人民公社では、あらゆるものが公有化され、成人は男女を問わず計画的に動員され、子供は施設に預けられた。区域内には人民食堂が設置されたが、一方で食器を含めてあらゆるものの私有が禁じられ、家庭内で食事することもできなくなった。この結果は、驚くべき生産能率の低下であり、貧困であり、さらには飢餓であった。これは大きな犠牲を出した大躍進政策の一面でもあるのだが、初期人民公社は、弊害の大きさから、しばらくして修正がなされ、私有制の一部回復等が図られている。この事例は、家族を無視した抽象的な能率主義が社会にどれだけの災禍をもたらすこととなるかを示す好個な事例であろう。
家族が社会にとって不可欠なのは、人の健全で尊厳ある生活にとって、情愛涵養、価値実現等家族でしか満たせない機能やその他の役割があるためである。抽象的な個人主義や能率主義は、社会を不安定化させ、混乱をもたらすだけとなろう。
これと同じことは国家にも言える。国家を廃して世界国家をつくればよいと主張する人もいるが、これは家族を廃して個人能力だけに着目した社会をつくろうというのと同じであって、混乱と荒廃の世界を招くこととなろう。現代の民主国家は、個人の自由・尊厳、民族的伝統等を守る上で他の組織にはない機能、役割を果たしている。民主国家の相互尊重による連合的な国際社会こそが、平和で安定した世界への唯一の道なのである。
発表時期:2016年5月
学会誌番号:36号