河原昌一郎
米中貿易摩擦が激化し、米国から中国への穀物輸入圧力が強まる中で、中国の国務院新聞弁公室は、2019年10月14日、『中国の食糧安全』と題する白書を公表した。その主な内容とするところは、中国では、近年、めざましい食糧(中国で「食糧」とは穀物のほか豆類、イモ類を含む)増産を達成し、穀物自給率は95%以上を維持しており、今後とも食糧を自給していく体制は整っているというものである。
中国で食糧に関する白書が出されるのは今回が初めてではない。23年前の1996年にも『中国の食糧問題』と題する白書を同じく国務院新聞弁公室から公表したことがある。当時、『誰が中国を養うのか』(レスター・ブラウン著)という著書が国際的に大きな反響を呼び、中国の食糧需給への不安が高まっていた。同書によれば、中国国民の所得向上は肉類消費を増加させるため、トウモロコシ等の飼料穀物への需要が高まり、さらに人口増加もあって、中国は将来的に大量の食糧を輸入するようになり、世界最大の食糧輸入国となることは避けられない。ブラウン氏は、このような中国の巨大な食糧需要を果たして世界はまかなえるのだろうかと不安感を示したのである。『中国の食糧問題』白書は、こうした不安を払拭するため、中国は今後とも食糧自給を堅持し、自給率を95%以上に保つことを内外に宣言したものであった。
さて、それではその後の中国の食糧需給はどのように推移したであろうか。今回の『中国の食糧安全』白書が主張するように、中国は食糧自給率を維持しており、今後とも維持できると胸を張って言えるのだろうか。少なくとも、これまでのところ、表面的には中国による穀物の大量輸入という事態は起こっていない。その限りにおいてはブラウン氏の不安は杞憂に終わったように思える。しかしながら、中国の現実の食糧の需給動向等を少し詳しく見れば、氏の不安は決して杞憂などではなく、現実に氏が想定したような事態が進行しており、ただ表面的にはそのように見えないだけのことであることがわかる。
まず、肉類生産量は2000年に約6千万トン[1]であったものが、2014年には8千8百万トンに増加した。これに伴って、飼料穀物であるトウモロコシの消費量は同期間において1億2千万トンが2億2千万トンとなり、1億トンも増加している。これに対して、飼料用ではないコメおよび小麦を見れば、同期間においてコメは1億3千万トンが1億5千万トンへ、小麦は1億1千万トンが1億2千万トンへと推移しただけであり、ほとんど変化がない。ブラウン氏が想定したように、中国では間違いなく肉類消費が増加し、それとともに飼料穀物への需要が大きく高まったのである。想定外だったのは、氏は中国がトウモロコシを1億トンも増産させることを考えていなかったが、中国がその増産を達成したことであろう。中国のトウモロコシ生産量は同期間に1億トンが2億2千万トンになったのだ。ただし、この増産にはからくりがある。
中国でトウモロコシ生産拡大を可能としたのはトウモロコシ産地周辺の大豆畑の存在である。中国政府はトウモロコシの価格支持・買付政策をとってトウモロコシ生産を奨励し、大豆生産よりもトウモロコシ生産が有利な状況を作り出して大豆畑のトウモロコシ畑への転換を促した。とりわけ、大豆畑が比較的豊富にあった黒竜江、吉林、内蒙古のトウモロコシ生産量は飛躍的に拡大し、現在ではこれら3省・自治区が全国でトウモロコシ生産量の1、2、3位を占めている。その一方で、大豆の生産量は必然的に減少し、輸入に頼るようになった。大豆の輸入量は2000年には約1千万トンにすぎなかったものが、2014年には7千1百万トンとなり、2017年には9千6百万トンに及んでいる。日本はトウモロコシのほとんどを外国に依存し、世界最大のトウモロコシ輸入国であるが、その輸入量は年間で1千5百万トン程度である。中国の大豆輸入量の大きさがわかろう。大豆は、搾油した後の絞り粕は飼料として用いられるが、大豆粕は中国の家畜生産の主要なタンパク飼料となっている。大豆輸入なくして中国の家畜生産はない。このように、中国の食糧自給政策は既に大きく破綻しているのだ。中国の飼料生産はブラウン氏が想定したように全体として大きく不足しており、ただそのしわ寄せがトウモロコシではなく大豆に向けられているのである。
それでは、今後は、今回の『中国の食糧安全』白書が主張するように、健全な食糧生産と安定した自給体制は維持されるのだろうか。これについては中国の食糧価格政策と農地政策の観点から見ておこう。
中国の食糧価格は、もともとそれほど国際競争力があったわけではない。2000年において、コメの国際価格207ドル(1トン当たり。以下同じ。)に対して国内価格も同じ207ドル、小麦は国際価格119ドルに対して国内価格は158ドル、トウモロコシは同様に88ドルに対して133ドルであった。全体として国内価格は国際価格よりも高めであったが、この時期はまだ大きな差はなく、国際的需給動向に応じて中国の食糧を外国に輸出することも可能であった。ところがその後、中国の食糧価格は右肩上がりに上昇し、内外価格差は徐々に拡大した。2017年において、コメの国際価格337ドルに対して国内価格は599ドル、小麦は同様に200ドルに対して347ドル、トウモロコシは155ドルに対して255ドルとなっている。中国の国内価格が上昇したのは、中国政府が食糧増産を図るために食糧の支持・買付価格を上昇させてきたためである。中国はコメと小麦には最低買付価格制度、トウモロコシには臨時買付備蓄制度と言われる制度を適用し、それぞれ支持・買付価格を上げてきた。ところがこうした政策は中国の財政負担を拡大させるとともに、国外からの輸入圧力を高めることとなり、いつまでも持続できるものではない。食糧政策の方針転換を迫られた中国政府は、近年はコメおよび小麦の最低買付価格を据え置き、または引き下げ、2016年からはトウモロコシの臨時買付備蓄制度を廃止した。こうした措置は言うまでもなく、食糧価格の低落を招き、中国農民の食糧生産意欲を大きく阻害する。『中国の食糧安全』白書での主張にかかわらず、中国食糧生産の低迷はすでに始まっており、今後、中国が食糧生産を伸ばしていくことは困難である。中国農民の不満の高まりとともに、食糧の供給不足が今後は拡大していくこととなろう。
また、中国は、こうした食糧生産の国際競争力の低下等に対応して、比較的規模が大きく効率的な農業生産が行える農業経営体の育成を図るため、特定の大規模農家、農業会社等に農地を集中させるための農地流動化政策を進めるようになった。中国農村では約2億戸の農家が存在しているため、農家1戸当たりの農地面積は0.5ヘクタールに満たず、極めて零細である。このままでは国際競争力を有する効率的な農業経営を実現させることはできない。このため、一部の意欲ある農家等に農地を集中させて経営規模の拡大を図ろうというものである。ところが、中国農村では、日本のように農村近辺に兼業機会があるわけではない。たとえば10ヘクタールの経営農家1戸を実現させるためには平均して20戸の農家が農地を手放す必要があるが、そうした農家にその後の生活が保証されるわけではない。加えて、中国では、近年の経済減速により、出稼ぎに出ている農民労働者の労働環境が悪化しており、都市で解雇されて帰農する者が増加している。農民労働者は都市で十分な社会保障制度の適用を受けることができず、流動人口として扱われているが、2018年現在、その数は2.4億人に及んでいる。中国で農民労働者はあくまで流動人口であり、都市労働者としては参入されない。企業は経営が悪化すれば、まず農民労働者から解雇する。すべての経済・社会の矛盾は農民、農村にしわ寄せされるのである。こうした農民労働者の動向は、土地流動化政策と相まって中国農村の就業・生活状況を悪化させ、安定した農業生産を脅かすこととなろう。
食糧政策の破綻、農民労働者の帰農等によって、中国社会の安定は、農村から崩れつつあるのである。
[1] 本稿において数値は『中国統計年鑑』または『中国農業農村発展報告』による。
発表時期:2020年2月
学会誌番号:51号