河原昌一郎
中国で全14億国民を対象とした社会信用システムの構築が進んでいる。社会信用システムの構想は、『社会信用システム構築概要(2014-2020年)』(2014年6月14日国務院公表)で明らかにされ、同構築概要に基づき各種の作業が進められており、一部ではすでに実施されているものもある。
同概要によれば、構築すべき社会信用システムは、公務の誠実、ビジネスの誠実、社会の誠実、司法の信頼を主要な内容とし、誠実な文化を建設すること、そして信ある行為を奨励して不信な行為を懲戒する仕組みを整備することを重点として、全社会の信用意識および信用水準を向上させ、経済社会の運営環境を改善させることを目的とする。すなわち、社会活動、個人行動の各分野で、誠実な行為と不誠実な行為を網羅的に列挙して、誠実な行為をした者は優遇し、不誠実な行為をした者には懲罰を与えることによって各人の信用意識を高め、モラルが低く不誠実な行為が横行している現在の中国の文化社会を変革し、中国を信用社会に変えようというものである。換言すれば、低信頼社会と言われる中国の社会を高信頼社会に変えようというのだ。
同概要では、この目標を実現するため、2020年までに社会信用システム実施の基礎となる法制度を整備し、全社会をカバーする情報収集システムを構築し、全面的に優遇・懲罰措置の機能を発揮できるようにするという。
この中国の社会信用システムには、政府が全国民の信用情報・行動を点数化して管理し、点数に応じて個人を処遇するという内容が含まれることから、オーウェル風のディストピア(ユートピアの反対語。オーウェルは、1949年に刊行した『1984年』という小説で、全体主義国家によって個人の行動がほぼすべて当局に監視され、マインドコントロールされる社会の抑圧状態、矛盾、残酷性等を描いた。)が中国に生じるのではないかという指摘も多くなされている。それでは、この社会信用システムでは実際にどのような取組が行われているのだろうか。その詳細な全体像は現在のところ明らかでないが、以下では、社会信用システムの一環の措置として報じられた中央または地方の取組記事の一部を紹介する。
①公務員批判記事掲載等の「悪事」を犯した者に対する種々の制裁措置。たとえば、不動産購入の禁止、子女の有名学校入学の禁止、高速列車の乗車禁止等。(ニューズウィーク日本版、2018年5月2日)
②全員100の持ち点から始め、0から200までのポイントで評価。献血、ボランティア等を評価の対象。高ポイント者には公共交通機関での割引、病院での優先的診察等の優遇措置を与える。(同上)
③個人の信用レベルを格付けしブラックリスト化。2018年3月時点で、ブラックリストに掲載されて国内旅行禁止の措置を受けた者は1200万人以上、国内線フライトの搭乗禁止措置を受けた者は900万人。阻止されたフライト数は1000万件、高速列車利用阻止は400万件以上。(Gigazine、2018年5月25日)
④アリババグループによる「セサミ・クレジット」というシステムの導入。各人の信用度を最低350点、最高950点で評価し、高点数者には低金利でのローン、賃貸物件契約の敷金免除、レンタルサービス利用の際のデポジット免除といった特典を与える。(Wired、2018年6月26日)
こうした現在の部分的な取組では、将来的にその全体像がどうなるかを予測することは必ずしも容易ではないが、いずれにしても当局に好ましい行動をする者には利益を与え、好ましくない行動をする者には不利益を課すこととし、実利で個人を誘導するシステムが構築されることとなると考えられる。当局に好ましい行動かどうかは当局が判断するのであろうが、いずれにしても当局を批判するような行為や反政府的行動は、最も好ましくない行動として各種の大きな不利益を被ることとなろう。
評価の対象とする行為には特に制限はなく、SNS、インターネット、Eメール、銀行口座、クレディットカード等を通じて得られる情報は言うまでもなく、職場での勤務成績、交友状況その他の社会活動等、およそ情報として収集し得るものはあらゆるものが評価の対象となり得る。
そして、評価の高低によって、銀行での取引、住宅の賃貸借、不動産売買、公共交通機関(飛行機、列車等)の利用、子女の教育(学校への入学)、医療機関の受診等、個人の公私にわたる生活全般に影響が及ぶのである。
しかしながら、こうした実利による誘導で個人の行動を変えていこうとするシステムで、本当に低信頼社会と言われる現在の中国社会を変革し、高信頼社会へと導くことができるのだろうか。そこに何らかの陥穽はないのだろうか。
結論から言えば、こうした社会信用システムで、中国政府が目標とするように中国社会を高信頼社会に移行させるようなことは不可能であり、ほとんどナンセンスであろう。
その理由として、第一に、こうした社会信用システムの導入によって、長期的に社会信用システムの効果を打ち消す以上の大きな弊害が考えられるということである。高得点者には大きな実利や特典が与えられ、しかもその評価の基準は明らかでないことから、評価者すなわち共産党幹部による恣意的な運用は避けられないだろう。すなわち、共産党員は優遇され、社会的差別が拡大する。現在の社会的地位、交友関係等も信用評価の対象となることから、社会的地位等によって生じた社会的格差が固定化することとなり、本人の努力だけでは浮かび上がることがますます困難となる。また、借金の不返済等の事実が生じればマイナス評価とされることは、リスクを承知して投資しようとする意欲を減退させることとなる。事業の失敗が、単に経済面だけでなく、社会生活、個人生活のあらゆる面で不利益に働くとなれば、リスクが大きくなりすぎよう。誰も積極的にリスクのある融資を受けたり、賃借をしたりしなくなる。成功が絶対確実に見込める事業にしか投資しないというのであれば、経済活動の縮小、経済の沈滞化は避けられないだろう。
その理由の第二は、信用社会の形成は、信用を尊ぶという意識が社会構成員各人に内面化され、そのことが社会的共通意識または社会的合意に達し、個人の行動を律する規範となることによってはじめてなされるものであって、利益誘導によってなされるものではないということである。信用を尊ぶという観念は一つの価値観であって、そうした価値観は社会構成員に共有され、各個人の利害を超えた客観的存在として認識されてはじめてその社会の規範として作用することが可能となる。すなわち、信用を尊ぶという観念が社会で規範力ある価値観として作用するためには、その価値観は個人の利害を超えたもの、換言すれば、たとえ個人には不利益となってもその価値観が優先すべきだという社会的共通認識があり、また各個人もそれを受け入れていなければならない。ところが、現在の中国社会は徹頭徹尾個人主義であり、功利主義的である。中国人は個人の利害を超えた客観的存在としての価値観を信用しないし、また他人がそうした価値観を尊重するとも思っていない。中国が低信頼社会と言われるゆえんである。高信頼社会と言われ、客観的価値観を共有して相手を信じた行動がとれる日本とは異なるのだ(詳しくは拙著『日中文化社会比較論』を参照)。利益誘導を基本とする中国の社会信用システムは、まさに現在の中国社会の延長上にあるものであって、その本質を何ら変えるものではない。
中国の社会信用システムは、中国社会を変革するようなことには決してならず、その悪弊を助長し、中国社会に大きな厄災をもたらすこととなるのではないかと危惧するものである。
発表時期:2019年2月
学会誌番号:47号